「ボーダーライン」
多くの人は、入試の合否を思い浮かべるのでは?
ボーダーラインを目標に、そのラインを超えるために、日々努力するのが受験生。
受験生に限ったことではなく、セレクションがあるところに必ず存在するボーダーライン。
ところが、このボーダーラインが曖昧で見えないケースがあることを気づいているだろうか?
判断基準が明確な世界と曖昧な世界
エンジニアである私は、数字で判断できる、判断される、そんな世界で生きている。
- マーケット分析、要求スペック
- 開発ターゲット、期限
- 品質確認
- 量産ばらつき確認
など全てが数値で判断可能な世界です。
それ故、良否、合否の判断は、誰が担当してもブレることはありません。
誰もが同じ判断基準を持ち合わせ、それを元に判断しているからです。
- 得点で判断する入学試験
- マラソン、100m走などタイムを競うスポーツ
- ハンマー投げ、スキージャンプなど数値で判断するスポーツ
数値ではないが判定基準が明確なスポーツ、例えば、剣道、柔道などもボーダーラインが見える世界と思います。
一方、これとは真逆の世界、判断基準が分からない、一人一人の判断基準が必ずしも一致していない、そんな世界があります。
- 芸術作品の評価(絵画、彫刻、演劇など)
- 美しさを競うスポーツ(フィギュアスケート、アーティスティックスイミングなど)
は判断基準が不明瞭な世界になると思われます。
同じ絵を見ても、良いという人もいれば、どこが良いの? という人もいる。
フィギュアスケートの試合では、複数の審判員が出す点数がそれぞれ違う。
感性の世界に明確な基準はないのか?
人の感性に訴える世界は、数値に置き換える事が困難であることを意味している。
確かに花がきれいと言う基準を言語化するのは難しいですね。
一人一人の異なる人生、今の感性が育ったプロセスが異なれば、同じものを見ても、同じ反応が起きない事は、むしろ当然の様に思える。
感性に問いかけているのに、皆が同じ答えというのは、かえって奇妙である。
何か統制が働いている状態と言えるだろう。
ところが、感性の世界でも皆が良いという作品、選手がいることも事実である。
- 著名な画家の代表作品(ゴッホのひまわり、ダ・ヴィンチルのモナ・リザ など)
- フィギュアスケートの羽生結弦選手
見えないボーダーラインを超えるには、この事が参考になるかもしれない。
著名な画家の代表作品は、何故、皆が良いと思うのか?
作品自体が素晴らしい事はもちろんであるが、
皆が良いと言っているのに、それを感じられない自分が恥ずかしい!?
という感情が働いているのではないか?
皆が素晴らしいと言っている選手、チームに、辛口の点数を付ければ自分だけ浮いてしまう、という無意識の不安感が働いているのではないか?
世間の評判が見えないボーダーを作る
これを逆手に取れば、外部の評価を高めれば、内部の評価も高まるということになる。
凄い、素晴らしいという先入観を植え付ける事が、見えないボーダーラインを突破する戦略になる。
- 先ずは自分自身、生み出す作品を高める。
- 外部からの評価を高める活動をする。
- ファンを増やす。
- 影響力、発信力のあるメディアに取り上げてもらう。
などなど考えればいろんな戦術がありそうだ。
何事にも今の結果に至った原因が必ずある。
なんで、あんな作品が?
なんで、あの選手が?
と思うなら、それに至った背景を分析すると何か見えてくるものがある。
そう言えば、会社の人事も見えないボーダーラインかもしれませんね。
なんでヤツが?
と思うなら、冷静に分析する事で新たな気づきが得られるかもしれません。
自戒を込めて。(笑)
気付き
見えないボーダーラインを超えるには戦略が必要。
先入観を利用するのも一つの手。
周辺から凄い、素晴らしいを集めてイメージを形成する。
そうすれば、内部の存在も外部同様の評価が得られる。
名言からの気づき
脚が短いのは構わない。短く見えることがダメなんです。
脚が短くても、筋をぎゅーっと伸ばして、
人の目がぐーっと上にいくようなオーラを出したら、
長く見えるじゃないですか!
by 井村雅代
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